どうだろうねえ。
誠実そうな人は得をすると思う。
細かくは損をするかもしれないけど、どこかでがっちり元が取れそう。
でも、誠実そうな人が本当に正直者かと言うとそう言うわけでもないし、
男性から見た無邪気な女性が、女性から見た無邪気な人ではない、
ってのと似ている気がする。
メイクとかも、今ナチュラルメイクってはやってるけど、
これも一見何もしていないように見える、
点がポイント。
化粧しないでも、美人なのよというアピール。
本当に人間が正直に生きたら、よっぽどの人で無い限り
わがままと見なされる筈。
だから、私は心を隠さない、無邪気なの。と言うのはポーズでしかないと思う。
完全に全てにおいて気が会う人なんてまず存在しないから、
心のままに生きたら、どこかに齟齬が生じる。
誠実そうな人に、わがままを感じなかった時点で、
相手は全て正直に言っているわけではないと思うべき。
ここで重要なのは、私は作為を否定しているわけではなく、むしろ肯定していることだと思う。
善人というのは、この世で一番始末に終えない人種ともいえる。
たとえば善人がしたことで不具合が生じたとき、
彼らは、「私は善意でやったのに、その善意をあなたは踏みにじるのね」
と言う態度を示します、その場で言わなくてもどこかで必ず言います。
そして、自分の善意のどこがまずいのかなどの、自己反省をしません。
つまり、全ての軋轢における、免罪符として善意を利用しているわけです。
無意識のうちに。
これにたいして、作為的に誠実な人を装う場合は、
的確にターゲットの要求を見極める努力をし、
相手に受け入れられなかった場合は、自己反省をします。
なぜなら、彼らの欲するのはターゲットの評価なわけですから。
自分は善人だなどという、幻想に酔ったりはしません。

私が一般的な高校教師が嫌いで、塾の教師が好きな理由もそこにあります。
学校の教師はどこか自分の正義に酔っている人が多く、
塾の教師は正義に酔った演技をしている人が多い。
塾でカリスマと呼ばれる超人気講師は生徒が理解するように
ついてくるようにシナリオを作っています。
シナリオは、生徒が理解し易いように、よく練られていて、
常に教室の反応を見ながら授業が進みます。
彼らには、生徒の支持が必要だから、必死です。
それに比べると、高校教師は甘いと言わざるを得ない。
どんな授業をしても、問題を起こさない限り退職させられないから、
自然と劣化します。
良く、学校は倫理を教える場といわれますが、
入る試験だけしかせず、大学や院を出て直ぐに教師になり、
そのまま安穏としているような人に倫理なんて教わりたくありません。

話が二転三転しましたが、正直者はそんをするが、
正直を装っている者は損をしない。
なぜなら、装う努力をしているから。
上記の質問は人の数だけ答えが有りそう。

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